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白虎隊 飯盛山の悲劇
慶応4年8月23日、白虎隊士中二番隊の少年20人が、飯盛山で自刃しました。
会津戦争を象徴する悲劇の一つとして知られています。
白虎隊は16~17歳、新政府軍の銃撃を受け、飯盛山へ敗走。
燃え盛る城下を見て、鶴ヶ城も尋常ではないように見えます。
城に戻って戦おうという意見もあったが、途中で敵に捕らわれ生き恥を
重ねる恐れもあり、上級武士らしくここで自刃しようという結論にいたる。
武士の誇りを重んじたその決断は、悲しくも堪らない気持ちになります。
飯盛山参道・白虎隊墳墓の地入口
早朝6時頃、散歩の方多し。ケッコウな階段。隣の動く歩道に目が(笑)
左に飯盛山案内図
飯沼貞吉・自刃した20名の唯一生き残り、白虎隊の悲劇を後世に伝える
またしても、不思議な縁を感じざる負えないのだが、昭和32年(1957)
に戊辰戦争90周年を記念し飯盛山に白虎隊19士の墓と、飯盛貞吉の墓が
建立されている。実は、この年は私が生まれた年です。
白虎隊像
会津藩は、朱雀隊、青龍隊、玄武隊、白虎隊の4部隊で編制され、
年の若い白虎隊は、実際に戦闘に出る予定はなく、主に警護の為の
予備隊の位置づけでした。しかし、戊辰戦争で会津に戦場が移り
出陣命令がくだされる。
あいづっこ宣言
”什の掟”の現代版
戸ノ口堰洞穴
猪苗代湖から会津地方へ水を引くために掘られた洞穴です。
戸ノ口原の戦いで傷つき退却した白虎隊士たちが、鶴ヶ城の様子を確認する為、
この洞穴を通って飯盛山へとたどり着きました。
階段を登りきると、左手に墓が見えてきます
戊辰戦争の殉難婦女子の稗
墓正面 白虎隊 19名の墓
墓 右側 領内各地で戦死した31名の墓
イタリア記念碑
石柱はボンペイ遺跡のもの、上部の鷲はイタリア軍の象徴
ドイツ記念碑
フォン・エッツ・ドルフ(ドイツ外交官)寄贈の碑
ケッコウ、多くの人が人が散歩を兼ねて登ってくる。ある人に会津城がよく
見える場所を尋ねると、”白虎隊が自刃した跡地”へ行くと見えるとの事。
少しためらったが、ここはやはり行くしかないと決断。地元の方も散歩
コースからは、外しているようで、誰もその方角へ歩いている人はいない。
自刃の跡地
意外と近く、歩いて3分程の所にあり。眼下には会津市街がよく見えます。
そして、周りには墓地のようで、他のお墓もたくさんあります。
また、隊士像も可愛く、建っているので、ここで本当に、悲しい出来事
がと思わせられます。
会津市街と鶴ヶ城
鶴ヶ城までの距離もあり、目が悪いので、中々確認できませんでした。
昨日、城に登った時、鉄塔が目印というのを思い出しようやく確認
できました。
鉄塔の右手に、鶴ヶ城の天守閣
鉄塔、そして、城である出来事を思い出しました。
私が初めて、”城”を見たのは、母の実家の北九州、小倉にある”小倉城”。
小学校、1年生の時、兄と親戚の子と3人で”小倉城”へ、バスに乗って
行ったのですが、兄達と分かれて迷子に。たまたま、家の近所に
高い鉄塔があったのを思い出し、城からも少しそれが見えたので
その方向に歩き続けことあり。そして、なんとか家にたどり着いた
事を思い出しました。後から、戻ってきた兄が「よく帰ってこれたな」
と珍しく感心していた。私の数少ない”プチ自慢”です(笑)
城にまつわる幼い頃の思い出、会津若松でよみがえるとわ(驚)
さざえ堂なども、回りましたが、今回はパス(笑)です。
その代わりに、会津の町並みを紹介します。
バスの周遊券を買いましたが、乗ったのは1回だけ。歩きながら感じた
のは町並みが美しく、特に昔の蔵などをオシャレに改造している店が
多く、楽しくも、積み重ねた歴史が感じられます。
特に七日町、野口英世青春通り近辺はイイ感じです。
野口英世 青春通り
野口英世は猪苗代湖の出身ですが、会津若松で青春時代を過ごしている
福西本店 豪勢な商家の風情が感じられます。
会津壱番館 喫茶店 2Fは野口英世青春資料館
朝、モーニングコーヒーいただきました。
風格、そして、歴史が感じられます。
鶴ヶ城近くの和菓子屋 ”会津葵”
辛党の私は、いつも見るだけです。美味しそうでした(笑)
次回は、さくら鍋の”鶴我”、おでん・郷土料理の”もっきり”を紹介します。