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由比と言えば、サクラ海老。美味しんぼにも登場する”くらさわや”
3月21日、さくらも開花し、見頃の東京方面へ行くことも考えたが
美食倶楽部としては、安易すぎると思い直し、そこで、浮かんだのが
”さくら海老”。以外と身近にあり、干したものは良く見ているが、
生食、本格的かき揚げでは食べた事なし。本格的に食べるのなら、
駿河湾、由比という事で決定。
さらに、さくら海老の”かき揚げ”料理で、漫画”美味しんぼ”にも
出てくる”くらさわや”に行くことに決定です (笑
店情報では、予約不可で、旧東海道沿いにあり、由比駅から距離も
そこそこあるらしい。
安藤広重 東海道五十三次 由井
良く見ると、峠の崖の道を旅人が歩いています。
安藤広重の「由井」の絵は薩埵(さった)峠 展望台より見た風景です。
せっかくなら行って見ようと思い、調べてみたら、隣駅の興津(おきつ)
よりハイキングコースあり。2時間程で由比まで行くようです。
もう何年もハイキングはしてないけど、駿河湾を見ながら絶景の景色が
見れて、その後に、サクラ海老で、一杯やれたらたら最高かも (笑
当日、JR東海道線 鴨宮発7:26 熱海乗換、興津着 9:04
JR東海 興津駅
スイカで乗車し、駅改札を通過しようとするがエラー。
スイカは熱海までしか使えないらしい。駅員さんを探すが誰もいない。
※JR東日本 熱海までSuica(スイカ)、JR東海 函南よりTOICA(トイカ)
駅の窓口には、9:30より出勤してくる表示。うその様だけど本当の話(笑
確かに乗り降り客は少ないので、合理・経済的ではあるが。
待つ時間はないので、取り合えずハイキングコースを確認。
「薩埵峠 展望台」へは行けません。眺望不可の看板。
今更、予定変更はできないので、少し落ち込みながら出発。
そういう状況もあるのか、ハイキング客の姿は一切なし。
この日は曇天でしたので、残念ながら、富士は全く見えませんでした。
興津駅から30分程歩いて、ようやく、展望のいいハイキングコースへ。
ほぼ、年がら年中、富士山は見ていますが、やはり、その場所や地形、時間
によって見え方が変わります。安藤広重の東海道五十三次、富士三十六景、
そして、葛飾北斎の富嶽三十六景で分かるように、富士が見えるだけで
風景に趣やロマンが感じられます。特に昔は、空気も澄んでいて、高層や
人工物もなく、東海道を歩く旅人には、富士山の存在が大きく、憧れや情景も
大きかったと推測できます。
遠方に由比の町並み
桜が綺麗でした。しかし、この先は進入禁止で進めず、う回路へ
この桜を見て少し救われました。しかし、崩落が無ければ、素晴らしい
眺望で、良きハイキングコースだったと思われます。
この後は、う回路を20分程歩きます。
う回後、「薩埵峠 駐車場」より
山にはたくさんの”みかん”。ここから先は舗装された細い道路を歩きます
眼下には山際よりJR東海、国道1号線、東名高速が並んでいます。
台風の時などは、良く通行止めになる箇所です。
東海道、倉沢の風情が感じられる家並み
この日は3月21日、春分の日。国旗が各家、出ています。
私の故郷、福岡の今は無き実家がこのような家だったし、国旗も出して
いたので懐かしさあり。
東海道 名主の館 小池邸
小池邸の中庭 水琴窟。 地中より琴の音を思わせる反響音が聞けます
以上、薩埵峠 と東海道 由比の町並みでした。長くなるので
次回、さくら海老・磯料理の”くらさわや”を紹介いたします。
下田港の海が一望できる 名店”磯料理 辻”
磯料理 辻 さんへは夜、又は昼に行くべきか迷いました。
地図で見ると、海際で確かに回りには何もなく、夜だとかなり怖いところ
のようです。ホテルから歩いてもそこそこ遠いようなので昼、行くことに。
ビジネスホテル ウラガ
伊豆急下田駅からは徒歩15分程。ペリーロードや了仙寺等の名所の近所。
ウラガは黒船つながりか!?
あぜりあ丸 のプロペラ
実はこの少し手前に、”ペリー来航記念碑”や”下田公園”への入口あり
フェリー あぜりあ
神新汽船下田営業所 フェリー乗り場 神津島、式根島、新島行運行
20代は東京竹芝から新島、八丈島など伊豆諸島へ良く行ったな。
10時間程かけて、若かったな (笑) 下田だと3,4時間で行けるらしい。
海上保安庁の船
犬走堤防
20年程前にここで、投げ釣りをしたのを思い出しました。坊主でした(笑
今日、釣りに来ている人に釣果を聞いたら、やはり坊主で、イカ狙いとの事
そして、堤防から”磯料理 辻”の店が見えました。こんなとこにあったんだと、
いう驚きと、何か縁でもあるかの様な不思議な気持ちになりました。
実はここには、数年後、もう一度来ており、マウンテンバイクで海岸べりを
走った記憶あり。
青イソメ、昔よく買ったな
散歩の目的は、”辻”さんの場所確認だったので、一旦ホテルに引き返すことに
ホテルに戻り、再度、海べりを歩く。朝は肌寒かったが、今は程よい暖かさ。
天候も快晴で、海もきらめいている。
遥か遠くに、黒船が見える
海水も透き通っている。うに、あわび、さざえなどたくさん取れそう(笑
海もおだやかで、ペリーが第一番目に開港を下田にしたのが分かる気がする。
外洋からの避難や寄港に、中国などへの外洋航路の基地としては最適だったかも。
雁島(かねしま)
この島の袂が”磯料理 辻”になります。なんでこんなところに店がと思って
ましたが、店の前の建物がイケスだからと判明。
開店は11時。予約は11時半だったが、早く着いたので入店。
昭和風の建物が、イイ感じです。
この日は予約で、伊勢海老鬼殻焼き御膳 ¥4200 、金目鯛のつや煮 ¥2900
追加をしようと思ったが、金目鯛は半身あるので特にせず
有名人・芸能人の写真がズラリ
これは凄い、ミスターの色紙が、そして、達筆。
さらに、驚いたのは、三島由紀夫さんの色紙
取り合えず、ビールと塩辛
30分前に入店したので、料理はすぐに応対できないとの事。当たり前。
ただ、塩辛なら出せますとの事でした。充分です。
その後、丁寧な応対ですが、鬼殻焼きの伊勢海老をザルに入れて、
”コレ”になりますと確認へ。さらに、金目鯛は、2600円と2900円
のどちらにされますかと確認へ。当然、2900円を選択。
これは、”なかなか”の事だと感心しました。
まず、出てきたのは、もずくとイカの小鉢、蛤とサザエのつぼ焼き
サザエはすでに、楊枝にさしてあるのは有難い。それに、サザエと
蛤がセットで出てくるのもイイ感じです。味も申し分なしです。
次に出てきたのは、刺身で金目鯛炙り、本マグロ、カンパチ?
金目鯛が最高でした。柔らかく、甘く絶品。
もう、日本酒の出番。伊豆美を注文。ラベルの左下に”辻”
これはオリジナルのお酒かも。
メインの伊勢海老鬼殻焼き
小ぶりでしたが、タレの味付けが絶品で美味い。殻も柔らかく、足など
食べれるほど。最前に”海老”の確認があったが、サイズは要望で大きい
のとか選択できる模様。当然、値段も上がるのかな (笑
ダブルメインで金目鯛のつや煮
通常の煮つけとは別物の感あり。名称の如く、艶々で、美しい。
そして、身もしっかり、ふっくらで美味しいかったです。
金目鯛のつや煮 下田ブランド認証品
人気の品で、かなり仕入れも良質の選び抜かれたものかと思います。
1テーブルに1皿の制限つきです。いつも、一人飲みですが、今回は
得した感じ(笑)そして、伊勢海老鬼殻焼きも下田ブランド認証品です。
接客、食材の良さ、味、ロケーションと素晴らしく、又、機会があれば
来たいお店です。
帰りは伊豆急下田駅より、サフィール踊り子に初乗り
車内が綺麗でゴージャス感あり
車窓から河津桜
静岡麦酒と伊豆わさびピスタチオ
やはり〆は、電車での一杯。最高の旅でした。河津と下田に乾杯!
次回は、3月 月替わりマルチボードです。
ペリー上陸記念公園に設置された、ペリー艦隊来航記念碑
下田は黒船来航後、日米和親条約で最初に開港した場所です。(他に函館も)
調印後、ペリーは軍艦7隻を下田に入港させ日米和親条約附録下田条約を
了仙寺にて締結。ペリー上陸記念公園から了仙寺まで、ペリーが300人の
部下を引き連れ行進した道のりはペリーロードと呼ばれています。
ペリー来航図
ペリーロード
了仙寺
この2年前、1853年にペリーは浦賀に4隻の軍艦で来航。そのうちの2隻が
大型の蒸気船で、新型の大砲を備え付け、しかも砲門を開いていつでも
戦闘開始状態でやってきた。幕府は艦隊の来航に慌てふためいた。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 (じょうきせん) たった四で夜も寝られず」
この時代は帆船が普通、黒い煙を上げて走る大型の船、そして、大砲とくれば
脅威でしかない。ペリーの強硬な外交により、翌年に日米和親条約、そして、
下田の開港、と時代は大きく変わることに。
その後、欧米の進んだ技術、武力に危機を抱いた各藩の藩士や藩主を中心に
攘夷論が巻き起こり、最終的には江戸幕府が倒される事になります。
下田は、1854年、吉田松陰が、異国を見聞しようとペリー艦隊へ乗艦し、
密航を試みた場所です。
そして、1863年、幕府軍艦奉行並・勝海舟は、土佐藩主の山内容堂に謁見し
坂本龍馬の脱藩の罪を解き、その身を自分に預けて欲しいと懇願したのが、この
下田の宝福寺でした。その理由により”坂本龍馬の飛翔之地”と呼ばれています。
勝海舟は酒は飲めないのですが、承認を得る条件として、大杯の酒を飲み干しました。
山内容堂はその覚悟より承認し、紙に瓢箪の絵と「歳酔、三百六十回、鯨海酔候」
と署名し、勝海舟に渡しました。1年中、鯨のように酒を飲み酔っぱらっている殿様
という意味で有名な言葉になりました。
そして、高知の有名な日本酒「酔鯨」は、これより由来しています。
開国論者の海舟は、自分を斬りにきた龍馬に、世界情勢や海軍の必要性を説き、
感服した龍馬はその場で弟子となったとされている。海舟は龍馬以外にも、数名
の土佐藩士が海舟の私塾に入門すること追認させた。
龍馬はその後、「神戸海軍操練所」の設立に奔走する。この活動をもとに龍馬が
大きく飛翔して行くことに。
山内容堂
山内容堂の『鯨海酔候』には、鯨のように酒を飲むの意だけでなく、
鯨のように大海を航海する船、軍艦の意もあったのではないかとも
考えられる。
後に、龍馬は、薩長同盟の仲介役、そして、新国家体制の基本方針を起草
(船中八策)、それを後藤象二郎が山内容堂に進言し、1867年、容堂は
徳川慶喜に大政奉還を建白した。
容堂は「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と評されていたが、幕末の情勢は
どっちに転ぶか分からない為、土佐藩がどう動くべきか見極めていたと
され、幕末四賢候の一人と言われている。
宝福寺 坂本龍馬飛翔の地
下田公園
ペリー来航記念碑から歩いて2分程。標高約70m
下田公園 ・下田城址
1588年に北条氏直が築城。戦国時代は小田原・北条氏の水軍の拠点だった。
秀吉の小田原征伐時、1590年、長曾我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明らの
一万以上の水軍が来襲し、開城している。
石畳の歩道が整備されていて歩きやすい
早咲きの桜が所々にあり、目を楽しませてくれました。
開国記念碑
お茶ヶ崎展望台より
寝姿山からの風景
伊豆急下田駅から歩いて、2分程の所に、ロープウェイ乗り場
黒船見張り所の大砲
下田には今まで、何回もきているが、じっくりと歴史探訪、そして、下田公園
や寝姿山に登ったのは初めて。下田はやはり、魅力的な場所と再認識。
そして、ペリーが最初の開港を”下田”にしたのが、少し理解できたかも (笑
次回は、下田の磯料理の名店 ”辻” さんの食事報告です。お楽しみに!