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天正18年(1590年)4月3日より、小田原城包囲の戦いが始まる
秀吉の本隊は箱根湯本の早雲寺に本営が置かれ、早川が自然に、
両陣営の境界線に。こののどかで、閑静な土地に、とんでもない
数の武将、兵士が集結される。
小田原城 と 石垣山城の位置関係
早川の東に小田原城、西に石垣山城があります。
当時の小田原城は地上38.7m、石垣山城は標高262m程、
距離にすると2.8k程の位置でした。
また、一夜城と言われてますが、実際は、2カ月半程の工事でした。
その種明かしは、小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の
木を伐採し、北条側には一夜にして築城されたかのように見せて、
驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を狙ったもので、一夜城の名は
それに、由来したものです。
小田原合戦の攻囲陣立図
総構により中世最大の規模を誇った小田原城には約6万人が立て籠る。
豊臣方の軍勢は水陸合わせて約22万。現在、小田原市の人口は約19万人です。
両勢力を合わせると、総勢28万人の侍がこの小田原に集まった事になり、
それは、壮観だったかと思います。
徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道より、前田利家、上杉景勝率いる
北国勢は上野国(群馬)から北條氏の領国に侵攻。長宗我部元親、九鬼嘉隆らの
率いる水軍が兵員や物資を搬送し、海上封鎖に従事した。
織田信雄、蒲生氏郷、羽柴秀次、宇喜多秀家、池田輝政、堀秀政、黒田官兵衛、
石田三成、細川忠興など、名だたる戦国の英雄が小田原に集結。
北条家と同盟していた伊達政宗は秀吉の兵力を目の当たりにし、その同盟を
破棄し秀吉側に付き、北条家は完全に孤立。
秀吉の本隊は、最初は北条氏の菩提寺で、箱根湯本にある早雲寺を本営として
いたが、石垣山城が6月26日に完成し、秀吉は6月28日に入城。
そして、数日後の7月5日に氏直は開城して降伏している。
小田原城を見下ろす石垣山に、関東初の近世城郭の威容を誇った『一夜城』の
完成が、北条側に降伏を決断させ、同時に、秀吉の天下人として名を上げ、
天下統一を実現させたと言っても過言ではないのです。
今まで何回も登っていますが、マムシに出会ったことはありません(笑)
登り易いよう、整備されています。
二の丸跡、きれいな芝で、イベントや季節の催し等あり
木々の間より、小田原市街を望む。小田原城を探すが、分からず(笑)
小田原も高層ビルやマンションも増えている昨今です。
城が築かれる前は、笠懸山だったそうです。
ここは本丸。標高260mはビルにすると地上48階建てのビルに相当します。
そんな高い所に城、建物があるという事が、当時、約430年前にはあり得ない事。
そして、30以上の戦国大名と22万人の兵士を集めて、小田原に集結させるとか
これもあり得ないこと。
広大な相模湾、眼下には駐車場、そして右手に『一夜城Yoroizuka Farm』
『一夜城Yoroizuka Farm』
昔は自動販売機しか無かったので、城趾を見た後はすぐに帰るパターンで、
ほぼ歴史に興味ある人がほとんどでしたが、今はスィーツ、パンの購入、
または食事等を楽しみに来られる人も増えきて、賑わっています。
火、水曜日が定休日のようなので、”食”を楽しみに来られる方はご注意ください。
この日、実は、うなぎ『友栄』さんの後に寄ったので、おなか一杯で
ソフトクリームのみ頂きました(笑)