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ペリー上陸記念公園に設置された、ペリー艦隊来航記念碑
下田は黒船来航後、日米和親条約で最初に開港した場所です。(他に函館も)
調印後、ペリーは軍艦7隻を下田に入港させ日米和親条約附録下田条約を
了仙寺にて締結。ペリー上陸記念公園から了仙寺まで、ペリーが300人の
部下を引き連れ行進した道のりはペリーロードと呼ばれています。
ペリー来航図
ペリーロード
了仙寺
この2年前、1853年にペリーは浦賀に4隻の軍艦で来航。そのうちの2隻が
大型の蒸気船で、新型の大砲を備え付け、しかも砲門を開いていつでも
戦闘開始状態でやってきた。幕府は艦隊の来航に慌てふためいた。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 (じょうきせん) たった四で夜も寝られず」
この時代は帆船が普通、黒い煙を上げて走る大型の船、そして、大砲とくれば
脅威でしかない。ペリーの強硬な外交により、翌年に日米和親条約、そして、
下田の開港、と時代は大きく変わることに。
その後、欧米の進んだ技術、武力に危機を抱いた各藩の藩士や藩主を中心に
攘夷論が巻き起こり、最終的には江戸幕府が倒される事になります。
下田は、1854年、吉田松陰が、異国を見聞しようとペリー艦隊へ乗艦し、
密航を試みた場所です。
そして、1863年、幕府軍艦奉行並・勝海舟は、土佐藩主の山内容堂に謁見し
坂本龍馬の脱藩の罪を解き、その身を自分に預けて欲しいと懇願したのが、この
下田の宝福寺でした。その理由により”坂本龍馬の飛翔之地”と呼ばれています。
勝海舟は酒は飲めないのですが、承認を得る条件として、大杯の酒を飲み干しました。
山内容堂はその覚悟より承認し、紙に瓢箪の絵と「歳酔、三百六十回、鯨海酔候」
と署名し、勝海舟に渡しました。1年中、鯨のように酒を飲み酔っぱらっている殿様
という意味で有名な言葉になりました。
そして、高知の有名な日本酒「酔鯨」は、これより由来しています。
開国論者の海舟は、自分を斬りにきた龍馬に、世界情勢や海軍の必要性を説き、
感服した龍馬はその場で弟子となったとされている。海舟は龍馬以外にも、数名
の土佐藩士が海舟の私塾に入門すること追認させた。
龍馬はその後、「神戸海軍操練所」の設立に奔走する。この活動をもとに龍馬が
大きく飛翔して行くことに。
山内容堂
山内容堂の『鯨海酔候』には、鯨のように酒を飲むの意だけでなく、
鯨のように大海を航海する船、軍艦の意もあったのではないかとも
考えられる。
後に、龍馬は、薩長同盟の仲介役、そして、新国家体制の基本方針を起草
(船中八策)、それを後藤象二郎が山内容堂に進言し、1867年、容堂は
徳川慶喜に大政奉還を建白した。
容堂は「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と評されていたが、幕末の情勢は
どっちに転ぶか分からない為、土佐藩がどう動くべきか見極めていたと
され、幕末四賢候の一人と言われている。
宝福寺 坂本龍馬飛翔の地
下田公園
ペリー来航記念碑から歩いて2分程。標高約70m
下田公園 ・下田城址
1588年に北条氏直が築城。戦国時代は小田原・北条氏の水軍の拠点だった。
秀吉の小田原征伐時、1590年、長曾我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明らの
一万以上の水軍が来襲し、開城している。
石畳の歩道が整備されていて歩きやすい
早咲きの桜が所々にあり、目を楽しませてくれました。
開国記念碑
お茶ヶ崎展望台より
寝姿山からの風景
伊豆急下田駅から歩いて、2分程の所に、ロープウェイ乗り場
黒船見張り所の大砲
下田には今まで、何回もきているが、じっくりと歴史探訪、そして、下田公園
や寝姿山に登ったのは初めて。下田はやはり、魅力的な場所と再認識。
そして、ペリーが最初の開港を”下田”にしたのが、少し理解できたかも (笑
次回は、下田の磯料理の名店 ”辻” さんの食事報告です。お楽しみに!