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鶴ヶ城(若松城)と赤べこ
会津といえば、やはり戊辰戦争。
白虎隊、最近では、大河ドラマの「八重の桜」のシーンなどが思い
浮かびます。薩摩・長州・土佐藩を中心とする新政府軍、徳川率いる旧幕府軍
との戦いです。当時、会津藩主であった松平容保は京都守護職で、京都見廻組、
新選組を配下に置いていた。京都見廻組は、坂本龍馬を近江屋で暗殺した組織
であり、新選組は、近藤勇、土方歳三を筆頭にした歴史的なファンも多く、
旗印の”誠は”幕府に誠心誠意尽くすことを表している。
その戦いは、京都の”鳥羽伏見の戦い”より始まった。新政府5000人に対し
旧幕府軍は15000人だったが、市街地戦のため、その兵力を活かすことが
出来ず、新政府の大量の新兵器に屈した。
日和見で様子を見ていた藩は、これで一気に新政府に加担し始める。また、
裏切りにて、新政府へ加担する藩も出て、幕府側は窮地に陥る。
その後、江戸城無血、会津戦争、五稜郭の戦い後戊辰戦争も終結する。
実は3年程前に、五稜郭に行っており、その時に会津若松にも機会があれば
行かねばと考えていました。そして、福島県に、この日、初上陸です(笑)
小田原より東京、そして、東北新幹線のやまびこに乗車
長閑な田園、山々の風景が心を癒します。
乗車約1時間20分程で到着予定でしたが、途中で”倒木”の為、一時間弱
停車しました。色々あるものです(笑)
お城風の会津若松駅 手前に白虎隊像、奥に赤べこ
バスの側面に”什の掟”
”ならぬことはならぬものです”。”八重の桜”の綾瀬さんが言ってたような
セリフ(笑)凛とした美しい響きです。
会津武士(上士)の子は6歳になると、居住地域ごとに「什」という組織に
入れられます。「什」と書いてジュウと読みます。什とは「十人」を一単位と
する組織のことです。会津の武士道の原点。
バスで市役所前で降り、”鶴我”さんで食事。その後、徒歩で”鶴ヶ城”を目指す。
一瞬、城かと見間違うほどの立派な酒蔵
会津宮泉 鑑評会品酒 大吟醸720ml 6149円税込み
イイ値段です。美味しいんでしょうね。いつかは飲んでみたい(笑)
試飲できます。お昼に”鶴我”さんで一杯やったばかりなので、パスしました
鶴ヶ城、見えてきました。
お堀の風景に情緒が感じられる。木々の緑も美しい
お堀の水は江戸時代に造られた用水路で、猪苗代湖より引かれている。
水量が多く、深みのある色です。
桜ヶ馬場跡
山本八重が人員検査で男装して、検査を通過したところです
本丸茶屋
北出丸の大手門 別名みなごろし丸
北出丸に侵入した敵を三方から殲滅。新政府軍も城内侵入できなかった。
鶴ヶ城 歴代城主 初代、芦名直盛 1384年、南北朝時代より
以後、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明、保科正之、
そして、幕末は名君、松平容保
鶴ヶ城 別名 黒川城、若松城
鶴ヶ城の名前の由来、蒲生氏郷の幼名が「鶴千代」、また、蒲生家の家紋
に鶴が入って、縁起が良いとされたため。
豊臣秀吉は、奥州仕置きによって政宗から城を取り上げ、信頼できる蒲生氏
を入城させた。
蒲生家家紋 対鶴
鶴ヶ城稲荷神社
葦名氏が城の鎮護として祀ったとされ、鶴ヶ城のパワースポット
層塔型5重5階 地下2階
雨予報でしたが、晴天に。暑い中、ミストがありがたし。
最上階は展望台
北側 手前が飯盛山 奥に磐梯山
飯盛山 白虎隊が自刃した跡地は、細い鉄塔の方角
会津市街地、そして、会津盆地
南北に34キロ、東西に13キロの縦長な楕円形盆地。奥羽山脈、飯豊山
越後山脈、会津高原に囲まれている
松平容保肖像写真
京都守護職時代に撮った写真。20代後半の頃。
関白平
秀吉が会津入りの際に、背ぶり山で休息した場所。
※私が生まれた”羽犬塚”も、秀吉由来の地名です。
ヒマな方は、ググって下さい(笑)
伊達政宗、小田原の秀吉のもとに出向く
仙台でなく、会津からで、新潟を経由し、山梨から小田原へのルートが驚き
関ケ原の戦いのキッカケは会津だった! 上杉景勝城主時代
歴戦の武将・加藤嘉明
ご存じ秀吉の子飼衆で、”賤ケ岳七人槍”の一人
蒲生氏郷の血統が凄すぎる(笑)
妻の父が織田信長、妹の夫が豊臣秀吉、息子の嫁の父が徳川家康
上記は、展示コーナーより、いくつか抜粋させていただきました。
戊辰戦争だけでなく、それ以前にも会津が、色々、歴史の舞台に出てくる
のはやはり、名城で、名将がいた証なのかも。
次回は、飯盛山をご紹介いたします。お楽しみに!