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鳥勝牛肉店にて、すき焼きで、極上の”米沢牛”で一杯、至福の時間を
過ごしました。
さて、次の目的地は、”上杉神社”。現在は松ケ岬公園という米沢城の跡地
にある。こちらも、山形霞城同様、夢の桜街道 八十八ヶ所 35番で
桜の名所です。残念ながら、こちらもまだ”つぼみ”でした。
開花していれば、下記のような景色が見れたのに残念(笑)
1238年 長井時弘 築城 松岬城と称す
1380年 8代伊達宗遠 長井庄を領す
1548年 15代伊達晴宗 米沢城へ移る
1567年 17代伊達政宗 誕生
1591年 伊達政宗 豊臣秀吉の命にて岩出山に移封
1591年 蒲生郷安 米沢城へ
1598年 上杉領に、直江兼続 米沢城へ 豊臣秀吉の命にて越後より
会津120万石に加増移封
1600年 関ケ原の戦い
1601年 上杉景勝 米沢城へ 徳川家康の命にて会津より移封
上記に簡単な略歴を紹介してますが、伊達家が以前は、この米沢城主であり、
伊達政宗もここで生まれている。豊臣秀吉の命にて岩出山に移封されたが、
その原因は、秀吉の小田原征伐にある。政宗の父・輝宗は後北条氏と同盟
関係にあった。そのため秀吉と戦うべきか、小田原に参陣すべきか迷い
それで、遅れて小田原の秀吉のもとへ死装束で駆けつけている。
上杉景勝も秀吉の時代は、120万石、そして、家康の時代に、米沢のみ
で30万石と、戦国時代は誰と手をにぎるか、誰の下につくかで運命が
左右された。
上杉謙信公の像
上杉景勝の父、そして、藩祖の上杉謙信。戦国時代最強の武将の一人で
その戦績は71戦中、62勝2敗8分け。その勝率は、ナント97%で
戦国武将で最強と言われる所以。「軍神」、「越後の龍」と呼ばれるほど
その戦いぶりは、群を抜いていた。
米沢城 と ゆかりの武将 伊達政宗、直江兼続、上杉景勝
上杉神社の参道の舞鶴橋に 龍 と 毘 の 軍旗
毘沙門天とは、四天 王の一つで、北方世界を守護する神であり、戦勝の神
ともいわれています。敵を寄せつけない威風堂々た る毘沙門天の姿がその
まま謙信公の雄姿と重なり、それゆえ、毘の軍旗が戦場に立つと、上杉軍は
勇猛果敢に戦いました。
武田信玄が「甲斐の虎」、上杉謙信は「越後の龍」と呼ばれたのはこの旗印
から来ています。通常は”毘”の旗だけですが、全軍総攻撃の際は”龍”の旗も
掲げ、より一層戦闘意欲を高めました。”龍”の字がくずれているのは、
「懸かり乱れ龍」と呼ばれ、突撃は龍がうねるが如く、敵前に乱入せよという
意味があったそうです。
しかし、不思議なもので、そんな旗の意味は当然知らず、この旗が風になびいて
ゆれているのを見た瞬間、胸に熱いものがこみ上げてきて、戦国の合戦の風景が
一瞬、垣間見えた。
上杉神社拝殿
武将を祀る神社は多いが、武将の姓をそのまま表してる神社は少ない。
蝋梅 と 上杉神社拝殿
今回、残念ながら上杉神社では桜を見ることができなかった。
そんな中、ふとある”ささやき”を聞いた気がした(笑)それは、来年
桜の時期に、新潟の春日山城址、そして、高田城に来るがいいと。
春日山城は謙信の居城で難攻不落の名城、高田城は徳川家康の六男、
松平輝公の居城で、その周辺に桜4000本といわれている。
”城一族”としては、やはり行くべきかな(笑)
上杉鷹山公の像
江戸時代、米沢藩の名君です
なせば成る、なさねば成らぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり
以上、上杉神社編でした。初期は伊達政宗、その後は上杉家と関わって
来た米沢の歴史を知ることができました。鷹山が行ってきた藩政の改革
等が、米沢牛、ラーメンプロジェクトに生かされてるのかも。
さて、次回は”月替わり 今月に一句”です。お楽しみに!